赤い花の株たちの隙間に咲く白いリコリスが毎年増えているような

3時過ぎに目が覚めて、外の空気を吸いに出ると、南西の空に明るい星が。白っぽい、フォーマルハウトかな。長いこと星座版を見てない。見直さねば。9月も後半になり、空気が澄んできて他の星もよく見える。

 

『NOPE/ノープ』

西部の馬の牧場で、SSV(サイド・バイ・サイドビークル)やら電動バイクが走る映画。

 

万人が持つ薄い箱の中で、誰かの死も、戦争も、災害も、あらゆるものが感情を揺さぶるように、抽出され、コンテンツ化される、されうる現在の世界では、真実の出来事を記録したモノが残り、その場にいた真実を知る者はいつの間にか忘れられるか、知られることなく覆い隠されてしまう。

 

雲に潜む「未確認飛行物体(生き物)」の生態が明かされていく過程が面白い。

目撃者は生きては帰せないよ、というほど執拗に姿を見たものを捕食しようとする生き物と、ガトリングガンのようにハンドルを回転させてそれを撮影するカメラを構える老カメラマン。エティエンヌ=ジュール・マレーが19世紀の終わりごろに発明した、連続で撮影できるカメラは、ライフル銃のかたちをしていた。視線で人が殺せたら、というが、この映画ではカメラでの撮影、または目を合わせるという行為が、暴力性と強くつながっているように感じる。

 

『ブレット・トレイン』

舞台となる新幹線は、号車ごとに内装ががらりと変わっていて、ジョーイ・キングがいた特等席の、向かい合うようなレイアウトは、知り合いじゃないと気まずそうだけどいいと思った。

列車内での戦闘では、やはりトイレを確保したものが有利らしい(『アメリカの友人』ではキル・ポイントになっていた)。

指を指すとき、残りの3本は自分を指しているということわざは、『Us/アス』では、残った親指が向かう先についての示唆のような感じだったけど、今回は、列車内で起こる混乱(黒幕も含めて)の要因のことだろうか。

 

『LAMB/ラム』

こちらも牧場で起こる出来事。車でしか移動のしようがない広大な草原と岩肌をみせる山山に囲まれた家は、そこに暮らす夫婦以外には誰も訪れないような場所。そこでひとりでいる心細さは、大自然の牢獄に囚われているかのような感覚だろう。一人乗りのシートでそれぞれがトラクターを運転している望遠レンズでのカットでそれが強調されている。

 

弟のスマホは岩に叩きつけられ、ここで得ることができる情報は、二人の仕事の性質上、本や雑誌かラジオの音声ぐらいで、テレビは過去や熱狂を映し出すスクリーンとなっている。他にも窓、鏡、トラクターのコックピット、ベビーベット、あるいは銃の標準(サイト)など、この映画には様々なスクリーンが登場して、それ越しに世界を見る者の現実とのギャップを覆い隠したり、真実を突きつけたりする。

食事のシーンはかなり多く、家族の生活の変化が食卓を通して描かれる。それと同時に、マリアがうなされる夢、犬に残された傷口の形が見覚えのあるものだったり、アダちゃんを生み出した「何か」が広大な草原のどこかから現れるのではないかという予感が続いていく。

アダちゃんが生まれていなかったら、3人の関係はどうなっていただろう、続いていったのだろうか。

 

リコリコ

11話が放送されたあたりから一気に見た。1話でのテレビのスクリーンをメディア選択待機状態のまま、つけっぱなしで眠っていたりするあたりの細かさに驚いた。ウイングスパンらしきボードゲームをやっていたり。

彼岸花は、自然では種子がほとんどできず、毎年咲いてくれる株は、基本的に人が持ってきてそこから球根で増えたものだ。根や茎に毒を持っているので、畑にモグラなどが侵入するのを防ぐ役目があったそうだ。リコリスという名称はそこからきているのかも。