冬の海水浴場

年末の31日には、早朝から出かけて外で一日過ごすということをここ数年続けている。去年は3Dモデリングをして家に籠っていたけど、その前の年の31日早朝は、田んぼの広がっている方面へ自転車を漕いでいると雄鶏の鳴き声が聞こえてきて、大晦日、元旦関係なく毎朝鳴いているんだなと気づいた。海に出る場所まで進むと、ちょうど日が出てきた頃で、雪が少し降る冬の海水浴場には、なぜか壊れたディスプレイ一体型の箱型PCが(おそらく捨てて)あった。割れたボディには海藻が入り込んでおり、まるでコンピューターと一体化した有機生命体のようだった。夢で見るような光景だなと思っていたら、雪が強くなってきて、自転車で来たことを後悔した。去年の31日の記憶は曖昧だ。今年も家で過ごすつもりなので、そうなるかもしれない。

 

「すずめの戸締り」

新海映画を初めて映画館で見る。

朝、目覚めた鈴芽の頭上には、2匹の黄色いチョウがひらひら飛んでいる。飛び方や大きさ(少し大きめな気がするが)的には、モンキチョウの仲間だろうか。チョウはキリスト教では復活のシンボルらしい。それが2匹。後から思えば、この物語のテーマにも関わっている印象的なカットだった。

呪いによって椅子に姿を変えられてしまった青年と宮崎県の高校生が全国をめぐり、禍を招く「扉」を閉じていくという映画なのだが、呪い、扉ということで、まずあの動く城のジブリ映画が思い浮かぶ。しかし、この映画に登場する扉は、戦場へと繋がっているわけではなく、現在とは異なる時間が流れている場所に繋がっている(扉は個人の記憶とも繋がっているようで、デスストのビーチのようなものだろうか)。扉からは、ミミズと呼ばれるヒモ状のオーラが飛び出し、災害を呼んでしまう。最初に見た時は、今年何度も見たミサイルの軌道のようだと、不意に思ってしまったが、この映画のモチーフが現実に起きた災害を(物語が進むごとにその解像度は上がっていく)扱っているため、そう感じたのかもしれない。

劇中では、何度かアラートが鳴るのだが、アラートが鳴るのは、外から突然飛来してくるものに対してではない。「君の名は」では、宇宙からの彗星に対して鳴って(鳴らして)いたものだが、今回は列島で起こった地震に結び付けられていた。同時に浮き出てくるのは、忘れられた場所、かつて賑わっていた場所として登場する各地の廃墟たちだ。これらの場所で流れている時間は、人々の暮らしから離れ、止まっている。ただこの映画に登場する廃墟は、イメージの廃墟という雰囲気で、扉の延長に留まっているようにも感じた。

東北の扉の先で、母親ではなく幼少期の自分に出会う鈴芽は、過去の自身を勇気づけ、勇気づけられたことを思い出す。日本列島を縦断した先から、再び出発の地へと戻っていく。最後にいつもの坂道で青年に再会した際の「おかえり」は、自分に向けた言葉でもあったのではないだろうか。ううむ、しかしこの断絶された円環のような物語は個人の枠をどれほど超えることができるのだろうか。

 

「ノベンバー」

寄せ集めのガラクタでつくった体に、悪魔と契約して魂を入れて使役する、クラットというゴーレムのようなものが登場する。雪の体を持ったクラットには、流れる水の魂が入る、という設定が面白い。ホラー映画だと思って覚悟して見ていたら、実はしっかり恋愛モノでした。